2020年、夏の甲子園中止。逆境に立ち向かった球児は当時を振り返り、何を思うのか。
フランス・パリで行われているオリンピックもあっという間に折り返しを過ぎましたね。
ここまでの日本のメダル獲得数は24個(8月5日9時時点)。連日、多くの感動を生んでいます。
そして、明後日8月7日(水)からは17日間にわたって繰り広げられる熱戦。夏の風物詩ともいえる全国高等学校野球選手権大会が開催されます。“夏の甲子園”とも表現され、多くの人に愛される大会です。
そんな夏の甲子園も2020年の夏、新型コロナウイルスの影響で中止となり、多くの高校球児たちの夢が奪われました。
甲子園優勝を目指して努力してきた球児たちは、夢の舞台でプレーする機会を失いました。また長い間努力してきた目標を突然奪われたことで大きな失望と悲しみに包まれた球児たちは少なくないはずです。
2020年当時3年生だった球児は今年22歳。高卒でプロに入団した選手は4年目です。
今回は、入団4年目を迎えた高卒選手2人のエピソードをご紹介します。
仲三河優太
大阪桐蔭高校という甲子園常連校での甲子園優勝を目指した仲三河優太は、当時をこう振り返ります。
「人生で初めて“喪失感”を味わいました。それでもその逆境を乗り越えるためにチームメートと互いに支えあい、プロ入りを目指すべく練習に励みました。改めて仲間との絆や野球の素晴らしさを知ることができました」。
人生初の喪失感
大阪桐蔭高校の野球部は全寮制でしたが、当時はコロナ禍のため、みんなでワイワイすることもできず、寮の同室の選手や学年単位での行動に制限されていたそうです。
2020年5月、甲子園の中止の発表を受けて、思わず感情的になってしまう選手もいたと言います。
「いろいろなニュースを見ていて、中止かもしれないと思いながらも、1%の可能性に賭けていましたが、それがゼロになった瞬間の胸の動悸は忘れられません。正直、目の前の甲子園しか頭になくて。。。ただ、、、もう、、、次のステージに向けてがんばるしかないと、不安とともに前を向いたって感じです」と仲三河は言葉を詰まらせながら当時を振り返ります。
その時点でプロの世界を目指すと決めていた仲三河は、一気に不安に襲われました。最後のアピールの場だった甲子園がなくなったことで、ドラフト指名されるのか。コロナのため練習時間も短縮されているなかで、試合もできない。そんな状況で指名されてもその先プロとしてやっていくことはできるのか…。
ただ、幸いに大阪桐蔭は近隣の学校と練習試合ができる環境にあったため、実戦感覚やスカウトの方へのアピールという面では本当に恵まれていたといいます。
やっと踏み出せた一歩
そして、その年の秋に行われたドラフト会議で7位指名を受けた仲三河は、無事プロ入りの夢を叶えます。甲子園の中止が決まってからもグラウンドに通い、後輩と練習を重ねる日々を過ごしてきた仲三河は安心するとともに思い出すことがありました。
「甲子園は“100日練習した分の力が1日で出る”と先輩からの言い伝えがあったんです。だから勝ち上がって試合をすればするほど、力が発揮されるって。甲子園での試合をきっかけにブレイクする選手もいましたから」。
半年ほど前には甲子園の中止を受け、高校野球での夢が奪われ、さらにプロ野球選手への夢も絶たれる可能性すらあった自分が夢にまで見たドラフト指名を受けたとき、チームメートの顔が思い浮かんだそうです。
「だから僕は1軍に上がって活躍する姿を見せなければいけないんです」。
入団してから思うような結果を残せず、今シーズンは育成選手として過ごしていますが、誰よりもバットを振る姿、練習後のやり切った顔は、着実に1軍への階段をのぼっていることに違いありません。
長谷川信哉
一方、こちらも常連校でありながら、卒業後は野球をやめてしまうチームメートもいたという福井の敦賀気比高校。
当時のことを「鮮明に覚えています」と即答した長谷川信哉もコロナ禍の球児のひとりです。
「甲子園は憧れの舞台ですし、そこで実力を発揮することで、これまでお世話になった方々へのお礼を伝えることができる場でもあると思っていました」。
4月下旬には夏のインターハイの中止が発表されており、甲子園の中止を薄々感じてはいたものの、少しの可能性すら無くなってしまったときは、どこを目標にしてやればいいのかわからなくなってしまったという長谷川。
「甲子園に出場していたら、もっとアピールできていたかもしれないし、逆に評価が下がったかもしれない。いずれにせよ、ちゃんと最後までやり切りたかった。周りの人に自分のプレーを見てほしかった。甲子園で高校野球を終えたかったです」と今でもこの気持ちに変わりはありません。
甲子園は感謝を伝えることのできる場所
長谷川自身は高校2年生の時に大会に出場して、甲子園の土を踏んでいます。
実は長谷川の父も甲子園球児だったそうで「父と同じ場所に立てたことがうれしくて、ここに来るまでサポートしてくれた両親には感謝しました」と、甲子園は最高の場所だったと、2年生のときにお礼を伝えたそうです。
「野球に限らず、スポーツには観戦に来た方に感動や興奮を与える力があると思います。試合の劇的な瞬間や選手の情熱は、勝敗に関わらず、大きな影響があると思うので、その感動をプロになっても伝えられる選手になりたいと強く思いました」。
やはり、甲子園は高校野球の集大成。あふれる感謝の気持ちを改めて伝えたかった分、プロ野球の1軍で活躍することで伝えていくと誓いました。
プロ野球選手への第一歩
プロを目指すことを早々に決めていた長谷川は、中止の発表を受けてすぐに木製バットでの練習を始めます。
もともとストレートの遅い球で練習はしていたものの、次のステップである変化球を打ち始めたのはこの時期から。通常は引退後にバットを変えますが、大会の中止を受けて、本来より3ヵ月早く木製に切り替えたことで、プロ入り後のイメージが湧き、見失っていた目標が見え始めたといいます。
しかし、感触が良かったのは最初だけ。6月には福井県の独自大会の開催が発表されますが、調子が上がってきませんでした。
「何かを変えなければいけないと思ったんです。実際にやったこととしては朝練ですが、もともとやっていたことをより強い気持ちで取り組むようにしました。自分の持ち味はなんだろうって見直したりもしましたね」
その成果もあって、大会では3安打を記録、チームの勝利に貢献しました。
プロ野球選手になった今、調子が落ちてきたときには、当時に倣って黙々と打撃マシンで打ち込みます。そうして結果で恩返しするのが長谷川のスタイルなのかもしれません。
同じ境遇に直面した仲三河と長谷川ですが、その経験が彼らに強い精神力と適応力を育み、それはスポーツだけでなく、人生のあらゆる場面で役に立っているはずです。
苦しい状況が続きますが、二人を中心とした若獅子たちを、これからも応援していただけたらうれしいです。