ライオンズOB通信 木村文紀編 ~現役時代は投手から野手に転向、今は若手選手の育成に尽力~
こんにちは。
西武ライオンズ広報部です。
不定期でライオンズOBの近況などをお伝えする「ライオンズOB通信」。
前回は潮崎哲也さん(現:埼玉西武ライオンズ スカウトディレクター)の話をご紹介しました。
今回は、
2006年のドラフト1位で投手としてライオンズに入団。
2011年にはプロ初勝利を挙げますが、けがの影響もあり2012年の秋には野手転向。
2019年には130試合に出場するなど、外野手として活躍しました。
2021年のシーズン中に北海道日本ハムファイターズへ移籍し、昨年引退。
今年からは埼玉西武ライオンズ 育成担当兼人財開発担当として奮闘する木村文紀さんの登場です。
■入団当時の潮崎さんとの思い出
木村さんは、前回登場した潮崎さんと深い関係がありました。
「シオさん(潮崎さん)は、僕が1年目の時の二軍投手コーチだったんです。まあ、鍛えられましたね(笑)。とにかく走らされました。外野のレフトポールとライトポールの間をダッシュする練習メニューがあるのですが、だいたい他のコーチだと10本で、それでもかなりしんどいんです。でもシオさんの場合は、必ず16本。オレの現役時代の背番号や、って(笑)。普段は温和でいつも笑顔を絶やさないシオさんで、僕もとても良くしていただいたのですが・・・、練習は鬼でした!」
「あと、2011年のオーストラリアでのウィンターリーグ(=プロ野球のシーズンが終わった秋冬に、若手選手が実戦経験を積むために派遣されるリーグ)に、雄星(菊池雄星投手、現:トロント・ブルージェイズ)と僕が派遣されたのですが、その時の引率がシオさんでした。期間中は毎日試合があるわけではなくて、試合のない日は近所の公園で雄星と僕だけの練習になるんです。その練習メニューをシオさんが組んで。オーストラリアでも走らされました(笑)。」
■投手をあきらめ野手として
投手として入団した木村さんですが、6年間、ピッチャーとしては思うような結果を出すことはできなかった、と振り返ります。
「入団して最初にいただいた背番号が41番。当時二軍監督だった渡辺久信さんが背負っていた番号です。その偉大な番号をいただき、とても光栄でしたが、ふさわしい成績を残すことができなかったので、悔しかったですね。」
後の話ですが、木村さんが現役引退を決意した際、最初に電話をかけて報告したのが渡辺GMだったそうです。渡辺GMから、じゃあライオンズに帰って来いよ!と言葉を掛けられ今に至っています。なんか縁を感じますよね。
「ルーキーの時は怖いもの知らずというか、打たれてもあまり気にしていなかったのですが、2年目、3年目、と経験を重ねていくうちに、プロでは通用しないのかな、と焦りが大きくなっていきました。高校時代はピッチャーとして通用していたのに・・・、もどかしかったです。怪我もあったので仕方なかった部分もありますが、5年目以降は球速も出なくなってしまって。結局、ピッチャーとしての6年間常に不安や苦しさがつきまとっていましたね。それでも、一軍で1勝を挙げることはできました(2011年7月31日)し、その日はヒーローインタビューでお立ち台にも上がらせていただきました。」
そんな木村さんですが、2012年の秋、野手転向を告げられます。
野手転向については、最初はワクワク感が大きかったと言います。
「ピッチャーと違って、たくさん用具を揃えられるのが楽しみでした。それに、野手としての再チャレンジの機会って、なかなか他の選手だと与えてもらえないものだと思いますので。感謝の思いと、やる気に溢れていました。」
しかし、その気持ちもすぐに吹飛びます。
「野手の練習はピッチャーよりも何倍もキツくて・・・。毎日クタクタでした。でも、自分は他の野手と比べて出遅れているわけです。両手の皮がボロボロにむけるほど練習しました。自分で言うのも何ですが、誰よりも練習したという自負がありますね。本当に無我夢中で、あっという間に1日が終わる、そんな感覚でした。」
木村さんと言えば外野手のイメージですが、最初は違うポジションを与えられました。
「野手転向後、ショートをやれ!って。ショートは今までの野球人生で一度も守ったことがない状況でした・・・。当時のコーチだった土井正博さんが、キムにはショートをやらせてみよう、ということだったらしいんです。土井さんがどんな意図でそう考えたのかはわかりませんが、とにかく必死に頑張ってみよう、と思いました。でもなかなかうまくいかず、あの頃は朝起きて球場に行くのが辛かったですね。ファームの試合にもショートで起用していただきました。3連戦の場合は、ショート・ショート・外野、というような起用法でしたね。でも、ショートで出た時は、毎試合1個は必ずエラーしてたんじゃないかな(笑)。特に西口さん(西口文也現ファーム監督)が登板する試合では、いつも迷惑をかけていた印象が強く残っています。今でも西口さんとは当時の話をしますね。でも、のちに外野に専念することになった際、あの時ショートで学んだ細かい足の運び方やスローイングが外野守備に生きました!ショートを経験する前と比べて、特に外野からのスローイングのフォームがきれいになったね、と当時の首脳陣の皆さんからほめられたことをよく覚えています。」
野手としての大きな思い出はふたつ。
「ひとつは初ホームラン(2013年5月28日ベイスターズ戦)ですね。横浜スタジアムでの交流戦で、(菊池)雄星の代打として立った打席でした。三浦大輔さん(現:横浜DeNAベイスターズ監督)から決勝ホームランを打つことができました。もうひとつはプロ初のサヨナラホームラン(2018年7月1日東北楽天ゴールデンイーグルス戦)です。大量の水を掛けられたり、もう最高でしたね。」
2021年に北海道日本ファイターズに移籍し、昨年現役を引退。
引退試合は2023年9月20日、古巣・ベルーナドームで行われました。
「Lビジョンで僕の動画を流してくださったり、ライトとレフト両方の守備位置につかせていただいたり、最後は両チームの皆さんに胴上げしていただいて。終始、うるうるしていました。」
この日の様子は、以下からご覧いただけます!
そして、木村さんはライオンズに帰ってきました。
■ファンの皆さんへ近況報告
木村さんの今の肩書は、「育成担当兼人財開発担当」。
ライオンズでは2020年から、選手が練習に取り組むにあたって、自ら目標設定し、自ら練習計画を立てて、その目標に到達できるような人財になることを目的とした「人財開発」というポジションを設けています。
選手の育成に加え、この人財開発の担当も木村さんが担っています。
「育成については、主に三軍の外野守備・走塁コーチ、みたいな感じです。三軍の野手の練習をサポートしています。」
「人財開発については、入団1~3年目の選手たちと月1回、1on1で面談を行っています。どうしたらもっとうまくなれるか、どうしたらより成長できるか、難しい言葉ではなく選手に伝わりやすいように話すことを心掛けています。いま担当している選手は6人。内訳は野手が5人、ピッチャーが1人です。選手たちの特徴や考え方は6人6様で、彼らと日々接する中でもいろいろな気付きがあり、僕自身も勉強させてもらっています。」
若い選手の指導をするにあたり、特に気を付けていることも聞いてみました。
「一番意識しているのは、選手によって性格も考え方も違うので、その選手に応じた指導を行う、ということです。まじめで考え込んでしまうタイプの選手には、面談でも話しやすい雰囲気を作ってフレンドリーな感じで接します。毎日提出を義務づけている報告書を前に固まっている選手がいれば、日記みたいに書いてみたら、と声を掛けてみたり。いずれにせよ、自分は年齢も若い方で、選手たちにとっては近い存在だと思うので、良き相談相手でいられるように、と意識しています。」
若獅子たちの兄貴分として奮闘している様子がよくわかりますね。
ここで、木村さんからライオンズファンの皆さまにメッセージを。
「2年ぶりにライオンズに帰ってきてみて、やっぱり自分にはライオンズのこの雰囲気、空気が合うんだな~って、しみじみ思いますね。チームは苦しい状況ですが、ファームからひとりでも多くの選手を一軍に輩出できるよう、自分なりのカラーを出して指導にあたっていきたいと思います。球場で僕の姿を見かけたら、ぜひ声を掛けてくださいね!」
そしてもう一つ最後に、木村さんが1on1で指導してきた奥村光一選手が、6月8日に支配下選手として登録されました!
木村さんと奥村選手の良好な関係性も伝わってきます!
ここまでお読みいただきありがとうございました。今後もライオンズOBの近況をお届けしたいと思っています。
いいなと思ったら、ぜひ「スキ」ボタンを押して、SNSなどでシェアしていただけるとうれしいです。